今回お話を聞かせていただいたのは、武蔵野市内などで幅広い活動を行っていた中川圭永子さんです。中川さんは、テンミリオンハウス運営、平和活動、演劇・表現ワークショップなど、多くの地域活動に関わっていた地域のキーパーソンです。多岐にわたるその活動のお話を、複数回にわたってお届けしていきたいと思います。

第二回目は、中川さんが関わってきた平和活動のお話をご紹介しながら、武蔵野市内の取り組みや歴史などについても少し触れていきます。

中川圭永子(けえこ)さん プロフィール
舞台俳優。企画集団A-A’(エーエーダッシュ)主宰。はらっぱ塾・レインボー元代表。大阪出身。
大学卒業後上京し劇団3○○(さんじゅうまる)に入団。
子育てがきっかけで地域に目を向けるようになり、平和活動やテンミリオンハウスの運営などに関わる。
表現ワークショップの企画や、市民による朗読劇を主催。
指定難病である網膜色素変性症と共生。

中川圭永子さんのインタビュー記事一覧


近所で見つかった1トン爆弾

長男が1歳になるかならないか、くらいの頃でしょうか。当時住んでいた家の近所で、不発弾が見つかったんです。

緑町3丁目のNTT武蔵野研究開発センタ研究棟新築工事現場から、(1997年)6月と7月の2回、立て続けに不発弾が発見・処理されています。いずれも9年前と同じ1トン爆弾でした。1回目の不発弾は地下5メートルの深さにあり、2回目は地下11メートルの位置から発見されていますが、当時の探査技術では、この程度の深度差がある場合、一度に発見するのは困難だったと記録にあります。
1回目は3864世帯・8487人が、2回目は2672世帯・6347人が避難を余儀なくされ、いずれも武蔵野市だけでなく半径500メートル圏内にある保谷市(現:西東京市)と練馬区の一部も避難区域に指定される一大事となりましたが、無事に処理は完了しました。

季刊むさしの ナンバー132 2020年秋冬号 武蔵野ヒストリー「武蔵野市の不発弾処理」より

当時発見された1トン爆弾は全長約2メートル半で直径約60センチ、火薬の量が約500キログラム。万が一爆発した時に破片が飛び散る範囲が半径約2キロメートル、爆風が及ぶ範囲が半径約500メートル。こんなものがすぐ近くにあったなんて…。

第二次世界大戦当時、現在の武蔵野中央公園付近には、ゼロ戦のエンジンなどを製造する中島飛行機武蔵製作所という軍需工場がありました。この工場は米軍の攻撃目標となり、昭和19年(1944年)11月24日から合計9回にわたる空襲を受け、工場関係者をはじめ、周辺住民も多数犠牲となりました。市では、戦争や空襲の悲惨さを継承するため、武蔵野の空襲などに関係する箇所に、平和案内説明板を設置しています。

平和案内説明板マップ|武蔵野市公式ホームページ

その時は千川小学校の体育館に避難するよう言われたんですが、不発弾が公園のすぐそばにまだあるなんてびっくりして、戦争が一気に身近になりました。

不発弾について調べていた時に、武蔵野市の令和3年度(2021年度)予算参考資料を見つけたのですが、総務費の中に危機管理対策事業というものがあり、事業内容に「不発弾処理対策」も含まれていました。今も身近な問題であることに変わりはないのだなと感じました。

「麦畑になれなかった屋根たち」と、平和活動との出会い

長男が小学2年生くらいの頃でしょうか…2005年ですね。当時発行されていたタウン誌に、「むさしの市民平和のつどい」の朗読劇読み手募集の記事があったんです。「麦畑になれなかった屋根たち」の絵本を、スライドと朗読による構成劇にしたものでした。

中島飛行機武蔵製作所周辺が空襲を受けた時のお話なんですね。

武蔵野市でこんなことやるんだ、武蔵野市が舞台なんだ、ってびっくりして。長男と一緒に読み手として参加しました。それが平和活動の始まりでした。この絵本は1995年に刊行された後に一度絶版になったんですが、署名を集めたりして、武蔵野空襲から70年後の2014年11月24日(武蔵野市平和の日)に復刊されたんです。市内の小中学校や図書館には必ずある絵本ですよ。そして、「麦畑になれなかった屋根たち」の絵本を基にした朗読劇も、これまでに幾度も幾度も形を変えながら発信してきました。

また、武蔵野市では「子どもとおとなの日本国憲法」という冊子を発行しているのですが、この中から好きな箇所を朗読しようというイベントに長男次男と一緒に参加しました。そうしていたら、「中川さん中心にやってみない?」と言われたんです。

平和活動の裾野を広げたい

2008年、第14回目の「むさしの市民平和のつどい」の構成演出を任されたのですが、「平和って反戦だけじゃない、もっと広い視点で考えたらいいのでは」と思い、「葉っぱのフレディ」を音楽劇でやらせてもらいました。小学生の子どもたちを中心にフレディやそのお友達の声をやってもらい、舞踏家の方やカリンバ奏者の方をお呼びして、写真家の方が撮影した高尾山の自然写真のスライドと組み合わせた「音楽劇『葉っぱのフレディ』~いのちの旅in高尾山~」が第一部で、第二部は漫画家の西原理恵子さんと毎日新聞記者の明珍美紀さんに対談をしていただきました。

「平和活動」と聞いてイメージするようなものとは違う感じがしますね、面白そうです。見てみたかった。

どこかで「小学4年生にでも分かるように話せばみんなに伝わる」と学んだんです。専門家の話ばかりだと全然分からないと感じる人も多いでしょうし、よっぽど興味があるという人じゃないと食いつかないという側面があります。だから紙芝居や絵本などを使ったり、子どもだけでなく大人相手の時も分かりやすく簡単な言葉を話すことで、そこから興味を持ってもらいたいんです。なぜ平和が大事なのか、それぞれが噛み砕いて柔らかい言葉で自分ごとにしていかなきゃいけないと考えています。子どもがあいうえおを覚えて漢字を覚えていくように、平和の大切さもあいうえおから始めなきゃいけない。

取っつきやすさって大切ですね。

武蔵野市の「平和の日」

PTA会長になると、武蔵野市立小中学校PTA連絡協議会という18校の会に入ることになり、武蔵野桜まつり実行委員会や青少協(武蔵野市青少年問題協議会)などの役割を一人ずつ担当します。私は小学校のPTA会長を務めていた時に、平和事業がやりたくて武蔵野市非核都市宣言平和事業実行委員会を選びました。公募委員としても関わっており、計7年間活動していました。

2010年に井の頭自然文化園で市民平和フォーラムが開催され、田上富久長崎市長の講演や被爆ピアノによる演奏などのほか、パネルディスカッションが行われました。大学教授の方が司会で、パネリストは田上長崎市長のほか、非核都市宣言平和事業実行委員会の委員長であり都議などを務めていた井口秀男さん、邑上守正武蔵野市長(当時)、そしてなぜか私が市民代表、子育て世代代表ってことで入っていて。

すごい顔ぶれですね。その後2011年に武蔵野市平和の日が制定されたんですね。

武蔵野市には、戦前・戦中に航空機エンジン生産の軍需工場である中島飛行機武蔵製作所があったことから、たびたび米軍による攻撃目標となりました。昭和19年11月24日に初空襲を受け、以降終戦までに合計9回の空襲で工場の従業員や周辺住民に多くの犠牲者を出しました。
市では、犠牲になられた多くの方に哀悼の意を表すとともに、戦争の記憶を風化させることなく、平和の大切さを伝えていくために、平成23年度に11月24日を「武蔵野市平和の日」として制定しました。

11月24日は「武蔵野市平和の日」です|武蔵野市公式ホームページ

平和の日の制定は、武蔵野市で平和活動をしている人たちの願いだったんですよ。ほかには、武蔵野市が「武蔵野から伝える戦争体験記録集」というものを第3集まで発行しているんですが、その第3集は私一人で7~8人から聞き取り調査して一冊にまとめたもので、あとがきも書かせてもらいました。

今でも武蔵野市の公式ホームページからPDFで読めるようになっているんですね。

テンミリオンハウスの運営でおばあちゃんたちと付き合いがあって、その時に戦争体験の話を聞いていたから「もしよかったら、お話を残したいので…」とアプローチしたんですが、「じゃあ、あなたが言うなら」と話をしてくださいました。

劇団3○○からのご縁

2010年に、武蔵野芸能劇場を全館借り切った「むさしのピースフェスティバル」が開催されました。その時私は、劇作家・篠原久美子さんの作品「遠くの戦争~日本のお母さんへ~」の朗読劇に参加しました。パレスチナの難民キャンプに住んでいるアブドゥールくんっていう14歳の少年が主人公のお話で、2009年に「非戦を選ぶ演劇人の会」が公演した作品です。それを見た人が「武蔵野市でもこれをやりたい」と思ったんだそうです。その時の公演では女優さんがアブドゥールくんを演じていたんですが、「武蔵野市ではリアルに男の子でやりたい」という話になり、ちょうどその年に14歳になるうちの長男に白羽の矢が立ったんです。「色々やっていらっしゃるようなので、ぜひ出ませんか?」と長男にオファーがきて、その時に「お母さんもお芝居やっておられるようなので、ついでによければ」と誘われて。

え、「ついで」だったんですか(笑)

それでよくよく調べてみたら、非戦を選ぶ演劇人の会の公演で演出をしていたのが、私が在籍していた劇団3○○を主宰していた渡辺えりさんだったんです。

知らずに話を受けてみたら、驚きのつながりがありましたね。

なんというご縁だと思いました。さらに私が演じた役は、以前劇団3○○に客演で来ていただいて一緒に舞台に上がったことがある根岸季衣さんが演じていて。彼女の義姉役が私だったんです。以前共演した根岸さんと私が同じ役を演じることになるなんて、それもすごく不思議な縁ですね。えりさんに連絡をしたらえりさんに見に来ていただけて、「中川の息子さんいいねえ」って褒めてくれたんですが、私には「中川…ちょっと泣きの演技が、ね…」なんて言われて(笑)

まさかのダメ出し(笑)

そしてえりさんのお父さんが中島飛行機に勤めていたということで、非核都市宣言平和事業実行委員会の方からえりさんを講師としてお招きし、2012年11月の武蔵野市平和の日に平和事業の一環として講演をしていただきました。

えりさん作の「光る時間(とき)」も武蔵野市で中川さんたちが上演したんですよね。

吉祥寺北町在住の方のお父さんが中島飛行機工場に勤めていたのですが、実際に中島飛行機工場から支給された水筒と、使われていた鞄を「光る時間」の公演のために貸していただいたんです。遺品を小道具として使わせていただきました。

公演後のアフタートークでは、非戦を選ぶ演劇人の会の公演で私と同じ役を演じていた女優の根岸季衣さんに来ていただきました。そして、えりさんのお父さんや弟さん、弟さんの息子さんが、はるばる山形から観に来てくださいました。

色々ご縁がつながっているんですね。

「中島飛行機」を舞台に反戦訴える 視覚障害を抱える中川圭永子さんらが上演 -11月21、22日・武蔵野市- — asacoco – アサココ -(2015年)

「さいごのかっぱ」との出会い

「遠くの戦争~日本のお母さんへ~」を上演した同じ日に、芸能劇場の別のフロアに子どもたち向けのスペースがあったんです。そこで「さいごのかっぱ」という紙芝居が口演されていたんですが、私は入れ違いになってしまい口演は観られなかったんです。でもその場にあった紙芝居の現物を見て、気になっていました。後日、別の所でクラフトハウスばくの渡辺宏貢さんが別の紙芝居を口演していたのを見て、それがすごく良かったのでその場で「弟子入りさせてください」って言ったんです。その後、渡辺さんの「さいごのかっぱ」を見た時に衝撃を受けて、恐れ多くも「掛け合いでやりませんか」とお願いしました。

渡辺さんも元舞台役者の大先輩ですもんね。

「さいごのかっぱ」はクラフトハウスばくのオリジナル紙芝居です。山奥の河童の話のようだけど、子どもの頃に玉川上水を泳いでた渡辺さん兄弟のお話を基にして、作家の龍神直也さんが作ったんだそうです。本当は玉川上水って泳いじゃダメだったらしいんですが(笑)

平和に暮らしていた河童の兄弟が人間に出会い、戦争に巻き込まれていくお話なんですよね。

一緒に掛け合いで紙芝居をやっていたんですが、第20回「むさしの市民平和のつどい」で朗読劇にして上演しました。稽古の時に音楽に合わせてジャンプしちゃったら、着地でアキレス腱をブチッと切っちゃって、本番は車椅子で出たんです。

まさかの事態ですね(笑)

「さいごのかっぱ」は、基本はクラフトハウスばくでの口演ですが、外でもやらせてもらっています。毎年8月や11月(武蔵野市平和の日)に綿々と、渡辺さんと一緒にやったりお互い一人ずつでやったり。

オリジナルの紙芝居、ぜひたくさんの人に知っていただきたいですね。

「平和」の意味

専門家の人が出てきた時にありがちなのが、「これを知らないのは駄目だ」というメッセージになってしまうことだと思ってます。そうなるとハードルが上がってしまうんですよね。

だから私は、専門家よりも手前の所でそこへのつなぎ役をやろう、そこにいくまでの道を作っていきたいなと思ったんです。

とても大事な考え方だと思いますし、そういう活動は絶対に必要ですね。

でも、「甘い」とか「武蔵野市だけでタコつぼみたいな活動しなくても」って言われちゃって。

いやいや、だいぶひどいですよそれ。

「それより国会前に行ってシュプレヒコールをやるべきだ」って言われたんです。

国会前で何かやることが全てではないと思うんですが…。

私は顔の見える範囲でこつこつとやっていく中で、大人もですが子どもたちにも伝えたいと考えていました。子どもたち向けのイベントでは、最初の頃は大人が読み聞かせをしていたんですが、子どもたちに読み手になってもらうのがいちばん良いなと思ったんです。子どもたちが主体になって、自主的に演目を決めて稽古もして読み聞かせをしてくれたり、大人と子どもを交えて「麦畑になれなかった屋根たち」の朗読をしたり。

大人が子どもに「やらせる」のではなく、「任せる」ってとても大事なことだと思います。誰かが言っていることを鵜呑みにするのではなくて、自分で考えられるように、そしてみんなで考えられるように。その積み重ねが平和につながっていくんじゃないかなって私は考えています。大人にとっても大事なことですが、子どもの頃にそういった経験ができるのはとても良いことですね。

直では伝わらなくても、絶対種まきにはなると思うんです。そういう所から始まるものだと考えています。どこかのタイミングでハッと思うことがあるだろうから。

私が主催するおはなし会では、後で参加者みんなで感想などを話してもらってシェアしています。一方向で聞いてても「あ、そうか」だけになっちゃうし、学びだけじゃなくて気づきも必要なんです。話が逸れても全然構わない、そういう風にしていかないと広がらないから。本当の意味での平和って何?ってずっと問い続けていきたいです。


編集後記

私(山田)が生まれ育ったのは広島県内で、平和活動や平和教育が盛んな地域でした。だから私にとって平和活動はわりと身近にあったはずで、平和記念公園にもよく行きましたし、小学生の頃は学校行事以外のイベントにも参加していた記憶がおぼろげにあります。

ただずっと引っかかっていたのが、平和を訴えながら喧嘩腰になっていた大人の存在でした。「平和を大切にしている人だから私の話もちゃんと聞いてくれるはず」と思っていた小学生の私はショックを受け、その後大人になった私は、平和の大切さは理解しながらも平和「活動」から距離を取るようになりました。

2016年に中川さんが主催していた「市民PEACEフェス」にカメラマンとして関わり、中川さんの活動を見て「そうか、平和活動って本来はこういうものだったのか」と思えるようになりました。子どもの頃に中川さんのような人と出会いたかったです。

彼女の活動の一部を紹介しつつ、引用や外部リンクも用いてまとめさせていただきました。ぜひ「平和」について考えるきっかけにしていただければ、と思います。



About the Author

山田奈緒子

Co-Founder

武蔵野市関前在住。広島県で生まれ育ち、結婚を機に東京へ。うつ病等を患ったり、近所に話せる人がおらず孤立していた経験から、地域のつながり作りに興味を持ち、地域の「居場所」の情報を載せたマップ作りの活動に参加。様々な活動を通して知った沢山の人たちのストーリーを誰かに届けられたらと思い、MMの立ち上げに参画。「作ろう!みんなのジモト Wa-shoiパートナーシップ」世話焼き人。 武蔵野市のおすすめスポットはクラフトハウスばくです。玄米ランチが食べられてゆるゆる過ごせてイベント盛りだくさんのコミュニティスペース?のような、不思議な空間です。わりといつもここにいます。

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武蔵野市関前在住。広島県で生まれ育ち、結婚を機に東京へ。うつ病等を患ったり、近所に話せる人がおらず孤立していた経験から、地域のつながり作りに興味を持ち、地域の「居場所」の情報を載せたマップ作りの活動に参加。様々な活動を通して知った沢山の人たちのストーリーを誰かに届けられたらと思い、MMの立ち上げに参画。「作ろう!みんなのジモト Wa-shoiパートナーシップ」世話焼き人。 武蔵野市のおすすめスポットはクラフトハウスばくです。玄米ランチが食べられてゆるゆる過ごせてイベント盛りだくさんのコミュニティスペース?のような、不思議な空間です。わりといつもここにいます。