あなたはなぜ働きますか?

社会人1年目のインタビュアーが、むさしの地域にゆかりのある人の「働く」を取材する企画『あの人の”はたらく”に迫る』
インタビュー対象者の人生を辿りながら、ライフステージ毎の仕事、生活、抱いていた感情などについて深掘りしていきます。

第二回目は、ラジオ会社のディレクターを37年間務めあげた 鎌内啓子さん。現在はむさしのFM市民の会 代表を務めています。
子ども時代から傘寿をすぎた現在まで、その熱意を支えるものに迫ります。

鎌内啓子(かまうち けいこ)さん プロフィール
1942年7月、武蔵野市出身。父親の転職に伴い10歳で広島県呉市へ移るも、早稲田大学進学を機に武蔵野市へ戻る。大学卒業後の1965年、文化放送入社。入社3年目から2002年の退職まで、ラジオ番組ディレクターを務める。退職後も多岐にわたる活動を展開。
むさしのFM市民の会 代表。3.11後は、チャリティライブ「フクシマを思う」を継続して開催している。また、むさしの市民エネルギーの理事も務め、自然エネルギーの普及を通じて、東京・武蔵野からサステイナブルな地域の創出を目指す活動にも取組んでいる。

初めまして、よろしくお願いします。鎌内さんは、ちょうどわたしの祖母くらいのご年齢ですね!

初めまして、鎌内啓子と申します。今日は2世代も年齢が離れた人と話せるのを楽しみにしてきました。
私は長年、文化放送でラジオ番組のディレクターをやっていました。内容の企画、出演者との交渉、取材、編集…番組づくりに関わるあらゆることが仕事でした。
20年ほど前に退職し、いまはボランティアでさまざまな活動に励んでいます。

子ども時代ー「抵抗なくして平和なし!」

子ども時代のお話からうかがいたいと思います。お生まれは戦前ですが、戦時中の記憶は残っていますか?

終戦した時、まだ3歳だったので、戦時中のことはほとんど覚えていません。ただ、戦後の光景はよく覚えています。武蔵野地域でもGHQの配給があって、服や食糧が配られました。配給される服についた、米国のせっけんのなんともいえない良い香りは、今でも鮮明に思い出しますね。

むさしの地域でそのような光景があったなんて、今では信じられないような気持ちになります。そんな時代に育った鎌内さんは、どんなお子さんだったのですか?

とても好奇心旺盛な子どもでした。母からの影響がとても大きいですね。

母は武蔵野で市民運動をはじめたひとりで、よくメガホンをもって仲間と町中を歩き回っていました。たとえば、戦後の貧しい時代で、追い剥ぎ(歩いている人を追ってものを盗むこと)がよく起こっていたのですが、住民の安全のために市営バスを深夜まで走らせてほしいと訴えたりしていましたね。
「抵抗なくして平和なし!」と叫ぶ母を真似して、5歳の時には母と一緒に同じように叫んでいました(笑)。この「抵抗なくして平和なし!」は、生涯を通じて私の心にある言葉ですね。

社会に向けて行動を起こす鎌内さんの姿勢の源は、そんな鮮烈な子ども時代にあったのですね。その後、戦後7年、鎌内さんが10歳の時に広島県呉市に移られました。

当時、原爆に遭った地域はまだがれきだらけでした。実は、今でも鮮明に思い出すことができる、広島で経験した光景があります。

ある日、父親と平和記念公園を訪れたのですが、そこでぼろぼろの衣をまとったおばさんに出会ったんです。私は好奇心旺盛だったので、気になって駆け寄っていきました。するとその人はいきなり片肌を出して、ケロイドを見せてきたんです。そうすることで、お金をもらおうとしていたんですね。そこまでしないと、彼女には生きる術がなかったんです。
そのとき、強烈な衝撃を受けました。「原爆は、人にこんなにひどい後遺症を残すんだ」「原爆は人々の人間として生きる尊厳さえも奪いとってしまう」、原爆とそれを生んだ戦争の悲惨さが私の記憶に刷り込まれていきました。

母からの影響に加え、広島でのこの経験から、社会的な活動や社会に発信することに強く関心を持ちました。

広島でのご経験は、想像を絶するものがありますね。高校時代まで広島、大学時代は東京で過ごされましたね。

学生時代は、「世の中を変える人になりたい」と常に思っていました。
高校生の時は学生運動のまっただ中で、東大学生運動の先頭だった樺美智子さんに憧れました。『朝日ジャーナル』や『世界』を必ず読み、高校でも同級生と、「どうすれば世の中が良くなるか」を議論することも日常的にありました。この時、たくさんの文章を読んだことが知力の向上にもつながっていきました。

大学進学は、両親の後押しがあって叶いました。女性は就職や結婚のしやすさのために短大にいくのが普通でしたから、4年制大学に進学する女性は珍しかったです。もともと医学への関心があったことから、心の医学である臨床心理学を学びました。

とても関心の深い学問でしたが、仕事としてはやはり社会的な活動がしたい、という思いが強く、進学して臨床心理学を深めることはありませんでした。

ラジオの世界で生きる

大学卒業後、社会へ発信する仕事としてラジオというメディアを選んだのですね。どのようなきっかけだったのですか。

当時は女性が就職することはとても難しい時代でした。ましてや男性と平等に機会を得られる業態は限られていました。そんな時代でしたが、当時、メディアの中でも自由で革新的な社風があった文化放送に祖父の知り合いにつなげてもらい、入社できました。最初は複数のラジオ番組の放送時間帯などを考える編成局という部署に配属されました。ただ、番組の中身をつくる仕事がしたくて、3年目からは制作の仕事に異動しました。

制作は、ラジオ番組を企画、対象者へ取材、録音を編集、放送するまでを担う仕事です。テレビ番組だと分業制なのですが、ラジオ番組はまるごと自分でできる。やりたいことが形にしやすい反面、企画が実現できるかは自分の能力次第です。それに、何よりも魅力を感じていました。

いちばん最初に担当したのは、「世界にとびだせ」という番組です。まだまだ海外旅行が当たり前ではない時代で、羽田空港で海外から帰ってきた人にインタビューする番組でした。

最初は何かと苦労が多いと思うのですが、新人時代で印象深いエピソードはありますか?

たくさんあります(笑)せっかく取材をしてインタビューを録音したのに、上司に「なんだこの取材は!」「相手のいうことに呑まれている!」と録音テープを投げつけられたりしましたね。

たとえば、「世界にとびだせ」の帰国した方へのインタビューで、「飛行機は高くておもしろいんですよ」といわれたことがあります。この言葉だけで何となくイメージがわくように思うのですが、ラジオで流すには、「どのくらい高いのか?なぜおもしろいのか?」を深掘りして、聴視者に状景が浮かぶように、コメントを引出さないといけないのです。そこがTVなどの視覚で伝えられるメディアとの違いです。

それから、体力が試される仕事でもありました。当時は、今のようにスマホで録音も録画もできるような機器はなく、なにせ、5キロぐらいある録音機とテープでの録音でした。取材に行く時は、一人で一方の肩に録音用のテープを担ぎ、もう一方に録音機を担ぐ訳です。徹夜の仕事もあり、一に体力、二に体力、最後に知力というという感じでした(笑)。一日中働いている感じでしたね。

ただ、それが当たり前だと思っていて、まったく辛くはなかったです。ラジオで伝わる音をどう作ればいいのか、企画の仕事をきちっとやるには何が求められるかを学んだ期間でした。また何より、好奇心の矢をあらゆる方向に広げて番組を企画していくことがとても楽しかったです。仕事は趣味でしたね。

鎌内さんの仕事への熱意、それを支える心もちの強さに憧れを覚えます。社会へ何かを訴える点では、どのような番組をつくったのですか?

戦争や平和に関するドキュメンタリーをつくりました。対馬丸沈没を追った番組、被爆2世を追った「広島を遠く離れて」という番組などです。

いちばん心に残っている番組は、いま吉祥寺でクレヨンハウスを経営している落合恵子さんとの「落合恵子のちょっと待ってMONDAY」です。働く女性をターゲットにした番組で、女性の視点で戦争や平和を考える企画を続けました。

社会活動からは逸れますが、人生相談の番組もやりました。相談したい人が電話で応募してくるので、誰を取り上げるかを私が選ぶんです。その相談人の喜怒哀楽、心理状態を読み取るのに、大学時代に学んだ心理学が役に立ちましたね。

「人間って、限りなくおもしろい」

ひとつの会社でラジオ番組制作を40年近く続けられました。続けられた理由はどこにあるのでしょうか?

「ラジオを通して人間のおもしろさを伝えたい」という熱に尽きると思います。

人間って、限りなくおもしろいと思うんです。ひとそれぞれが持つ個性をいかに見つけ、引き出すか、そして、それをより多くの人に伝えたい。いろいろな人に出会えるこの仕事が本当に楽しかったですし、やりたいことが尽きることはありませんでした。

また、文化放送に居続けたのも、同僚がとてもおもしろかったから。たとえば2年後輩には、みのもんたさん、落合恵子さんなどがおり、人材の宝庫でした。そんな人たちの中で仕事をし、鍛えてもらうことが生きがいでした。

仕事の中でうまくいかないことがあったとき、どう対処していたのですか?

楽観的であっさりしている性格なので、できないことはできないと割り切っていました。
仕事で馬のあわない人がいたとしても、その人の才能を見極めて、「ここをつつくとおもしろい」と思う点をどう活かしていくか考えました。

いくら社会に訴えても現実が変わらないことにむなしさを感じる時もあります。でも諦めない、たったひとりになっても発信しつづけよう、と思っていましたし、その信念はいまも変わることがありません。「抵抗なくして平和なし!」ですね。三つ子の魂百までというところでしょうか。

凛として人生の冬を歩む

鎌内さんにとって働くことは生きがいで、その熱に突き動かされて働き続けた40年間だったのですね。2002年には退職となりますが、その時はどう感じましたか?

退職後も何か仕事をしようと決めていました。大学の非常勤講師、日本フィル武蔵野の会の運営委員、武蔵野市在住の金子あいさんと始めた「フクシマを思う」の活動、むさしの市民エネルギーの理事。そして、むさしのFM市民の会 代表。文化放送時代よりも忙しかったこともありました。

ただ、ボランティアで働くことのよさを感じていました。文化放送時代は採算を考えた番組制作が必要だったのですが、ボランティアはそこがないので、ある意味、やりたい放題で好きなことができます。やめたいときはやめられますし、自由です。
もちろん、責任が伴うことは仕事と変わりませんが。

年を重ねた最近は、徐々に活動を整理し始めています。外に出て人と会うのが好きで、日々、携わる活動もとても多かったのですが、生来負けん気の強い性格だったのですが、足を悪くしたこともあり、できる範囲の活動に自分のペースで歩んでいこうと思い始めています。

人生には、春夏秋冬があります。春は20代。体力があるから何でもできるし、何をやっても楽しい。夏は、30代半ばから40代。仕事が充実する時期です。50代から定年すぎまでは、秋ですね。

定年を過ぎたいまは、人生の冬です。ただ、人と出会うことが生きがいで、社会の何かの役に立ちたいという思いが変わることはありません。凛として人生の冬を生きていきたい、そう思いながら、いまを過ごしています。


編集後記

80年の齢を重ねられてきたとは思えないほど、エネルギッシュに活動を続けられる鎌内さん。「社会に何かを発信したい」という貫かれた信念が言葉の端々から感じられました。それは、「なぜ働くのか」という問いへの鎌内さんなりの答えであるのだと思います。

どんなに大変な環境におかれても、その芯があれば波を乗り越えられる。それどころか、大変さがおもしろさ・やりがいになっていく。

社会人1年目の私がその芯を見つけるのにはまだまだ時間がかかるかもしれません。しかし、目の前の仕事をこなすのに精一杯になることなく、なぜ働くのか自分に問い続けたい。鎌内さんが人との出会いに没頭したように、自分が本気でおもしろがれるものを探していきたい。はたらく理由やその姿勢を改めて考え直したインタビューとなりました。

About the Author

谷内田 直歩

神奈川県で生まれ育つも、大学が三鷹市にあったことからむさしの地域と接点をもつ。どこかゆったりとしている雰囲気、ゆるやかな地域のつながりが気に入り、市民ライターになる。現在は埼玉県在住、障がいをもつ人と椎茸をつくる仕事に従事。手づくり料理が大好きで、「次の休みはこれをつくろう」といつも考えている。人との出会いが自分により豊かな人生を与えてくれると思っており、むさしの地域の人にもっと出会っていきたいです!

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About the Photographer

上澤進介

Co-Founder

武蔵野市関前在住、二児の父。1976年神奈川県川崎市生まれ。栃木県鹿沼市育ち。多摩美術大学を卒業後、建築設計事務所、広告制作会社を経てWeb制作会社を起業。子育てのために武蔵野市へ転居。会社も武蔵野市に移転して職住近接を実現。地域活動に関心をもち2017年2月から武蔵野市「地域をつなぐコーディネーター」の一期生としてコミュニティ活動に関わる方々と学びを深めている。 武蔵野市のおすすめスポットは三鷹の堀合遊歩道から中央公園へ続くグリーンパーク緑地です。子供たちと遊びながら中央公園へ向かうのが楽しいです。